『早稲田~鬼子母神』

近隣散歩:都電荒川線沿線・早稲田~鬼子母神前

早稲田(わせだ)は都電荒川線の始発着駅です。地名の通り、早稲田大学を中心に発展した大学街です。

早稲田の地名は、近くに神田川(旧・江戸川)が流れ、その入り組んだ神田川を利用した水稲の田園が多く有り、毎年、凶作に備え、普通の田植えより早めに田植えをしていた為に、早い稲の田として早稲田と名付けられています。

以前この場所(豊島群早稲田村)に早稲田大学創始者・大隈重信が東京に住む際の別邸(明治7年頃)があったことから、隣接する豊島群戸塚村に明治15年、早稲田学校・戸塚学校の名称を経て、東京専門学校(後に早稲田大学)が創られ、大学街となってきたようです。(現在では大隈重信の別邸跡地に大隈庭園が設けられています。)

近くには、日本や東洋の絵画・美術品を展示している會津八一博物館。シェークスピアや歌舞伎・演劇分野などの資料を揃えている坪内博士記念演劇博物館などが有り、無料で見学することが出来ます。さらに甘泉園公園や神田川沿いでは、季節の花など撮影ポイントが所々に点在しています。

神田川は昔、染めものが盛んでした。少し上流の中井・落合などには、幾つもの染もの工房さんがあったようです。昔は染物というと浅草周辺が主流でしたが、水質の悪化から、綺麗な水を求め神田川に根付いたようです。

面影橋付近には「東京染ものがたり博物館(富田染工芸)」があり、無料で見学できます。また、体験(有料)も出来るようです。

= 都電荒川線・面影橋付近 =

面影橋(おもかげばし)は神田川に掛かる橋の一つで、東京都新宿区西早稲田三丁目付近の目白通りに隣接する橋の名称です。

桜の季節になると多くの観光客が訪れ、隣接する都電荒川線「東京さくらトラム」も大賑わいになります。近年朝方には、多くのマラソンランナーが見受けられます。

<< 都電荒川線(東京さくらトラム)>>
都電荒川線(とでんあらかわせん)は東京都荒川区千住にある三ノ輪停留所から東京都新宿区早稲田の早稲田停留所(全長12.2km・30停留所)を結ぶ路面電車です。「東京さくらトラム」とも呼ばれ、沿線には季節に応じ、桜やバラの見処や、歴史・文化を学べる史跡などが点在します。また、商店街などにも隣接する、生活に密着した東京に残る唯一の路面電車です。

多くの観光客が、都電一日乗り放題(400円/2021年8月現在)を利用し、面影橋、王子飛鳥山界隈などの桜の見どころを一日で観る事が出来ます。

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《 面影橋の由来 》
目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である荏原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げたときに歌った和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の橋で、別の橋だという説もあります。

面影橋のたもとにあるのが「山吹の里」の碑です。
太田道灌が当地にタカ狩りに来た折、雨に降られ、農家で蓑(みの)を借りようとしたところ、その家の娘は庭に咲く山吹の花を手折って差し出します。ですが道灌はその意味が分からなかったようです。

しかし、後ほど「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌を暗示しており、「実の」と「蓑」をかけていたことを知った道灌は自らの不明を恥じ、 和歌の道に励んだという逸話があり、面影橋周辺には染物の名残があります。

江戸時代に、染め物業は神田や浅草に多くありましたが、下流の水が汚れたため染色に適した良質の水を求め、新宿の神田川流域に染め物の業者が集まってきた歴史があるようです。面影橋を少し下流に進むと左沿岸に「東京染ものがたり博物館(富田染工芸)」があります。

参考:『江戸名所図会より「新宿区・道とみどりの課」』・『東京新聞』

<Photo:春の面影橋周辺>
神田川周辺に桜並木が施され、春には多くの人々が訪れます。

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= 甘泉園公園 =

甘泉園(かんせんえん)公園は、面影橋に隣接する庭園です。新目白通りを一本隔てた場所にあります。新目白通りを歩いていると、水稲荷神社が見えてきます。四季折々の景色を楽しむ事ができ、森林浴などを楽しめます。

※面影橋から水稲荷を目指す場合、新目白通りからは裏参道になり、表参道は坂を少し上った早稲田通りから大曲を下り、坂の途中にあります。そして水稲荷神社の横に隣接するのが甘泉園です。

《 甘泉園(かんせんえん)公園の歴史 》
面影橋に近い、早稲田通りを一本隔てた場所にある「甘泉園(かんせんえん)公園」。この地は徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地でしたが、その後、初代清水家の江戸下屋敷に置かれました。

「甘泉園」の名前の由来は、ここから湧き出ていた水がお茶に適していたからです。池を抱く森は周辺とは別世界の静けさを演出し、四季を通して訪れた人々をもてなしています。

明治時代に相馬子爵邸、後に早稲田大学の付属施設となりますが、東京都に売却され、新宿区へ譲渡、現在に至ります。

参考:『江戸・東京ぶらり歴史探訪ウォーキング』
    著・瀧島 有/『新宿区資料』

<Photo:甘泉園の四季と秋のライトアップ>
ビルに囲まれた庭園で四季折々の草花が鑑賞できます。
秋にはライトアップも。

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= 都電荒川線・高戸橋交差点 付近 =

高戸橋(たかとばし)は新目白通りと明治通りの交差点です。
この場所は新宿区と豊島区のちょうど境界線付近にあたります。

新目白通りに沿って神田川が流れ、ちょうど交差点付近の明治通りに橋が架かっています。名前の由来としては、豊島区高田の「高」と新宿区戸塚の「戸」を重ね合わせた名称に「橋」をつけたと云われています。

高戸橋交差点の明治通りは、渋谷・新宿方面から池袋方面を結び、新目白通りは飯田橋・早稲田方面から谷原方面を結んでいる為に交通量が多く、主に平日の朝夕は、いつも渋滞しています。

また、高戸橋交差点の明治通りに沿って都電荒川線の鉄橋も並設されています。都電荒川線が新目白通りから90度曲がり池袋方面を走りますが、都電荒川線を線路と車両を正面から取れる為、有名な写真撮影ポイントになっています。池袋方面を望み、駅が見えますが、この駅が「学習院下」です。


<Photo:高戸橋周辺からの都電荒川線を望む>

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= 都電荒川線・鬼子母神前 =

鬼子母神前は都電荒川線の駅名で、読み方を「きしぼじんまえ」と呼ばれていますが、近隣の法明寺・鬼子母神堂では「きしもじん」「きしもしん」と読み方が異なっています。理由としては、鬼子母神は本来仏教用語(サンスクリット語)を用いられますが、「ぼ」が漢音表記の為に、駅名では「きしぼじんまえ」と呼ばれているそうです。

<Photo:鬼子母神周辺>

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<< 鬼子母神・御会式 >>

享和・文化文政の頃から日蓮上人の忌日とされる、毎年10月16日から18日に行われている伝統行事です。白い和紙の花を一面に装飾した、高さ3~4メートルの万灯を、団扇太鼓を叩きながら練り歩きます。

<Photo:鬼子母神・御会式>

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<<  大鳥神社  >>
都電荒川線の鬼子母神前駅を下車し、線路に沿って池袋方面に歩いていると、大鳥神社が見えてきます。日常は静かな佇まいですが、11月の酉の市では熊手などを求めて多くの参拝者が訪れます。

以前は、鷺明神と称し1712年(正徳2年)に鬼子母神の境内内に祀られていたそうです。当時、千歳橋付近に出雲藩下屋敷で松平出羽守の嫡男・万千代が疱瘡にかかった際、鷺明神にて祈祷され、病が治った事から厄除けの神として尊崇されてきました。

その後、明治維新での神仏分離により、現在の場所に大鳥神社として移築されました。本殿には日本武命(やまとたけるのみこと)、境内内に倉稲魂命(おいなりさま)と蛭児大神(えびすさま)が祀られています。


<Photo:鬼子母神・御会式>

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毎年11月には酉の市が開かれ、多くの人々で賑わいます。

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今回は、私の住む街を散歩しながら写真をとり、簡単な紹介をさせて頂きました。

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